丸山地区の由来と21世紀に思う
                                  丸山  丸山 摂

 私の集落の歴史を、祖先より聞いていたことの要点だけを抽出して紹介します。
 今は一般的に「丸山」と呼ばれていますが、実際は、眼目新と湯神子野の2つの字を
「丸山」と通称されています。

1 眼目新の歴史・由来について
  元禄年間、土井宗十郎が、当時原野だったこの地を開拓されたのが初めで、
 その後、加賀藩家老の横山家の係累が、この地に隠田を探しに来たと言われ、
 その子孫を、六兵衛と言ったそうです。
  また、千石より保昌分家で忠左衛門と言う人も来て、わずか20石の土地を糧に
 眼目新と名付けたそうです。
 
  明治22年には、石川県より富山県に所属し、白萩村字となりました。

2 湯神子野の歴史・由来のついて
  湯神子野は、湯神子の草刈り場であって、加賀藩が寛永10年、112石の用地を
 丸山用水と湯神子用水より、眼目新とともに取水し、明和5年ごろには、石仏村新三郎組に所属が変わり、
 天保10年には、下條組みに属したそうです。

  眼目新と同様、明治22年には白萩村字となり、
 その後、近辺の丸坪山(酒井建設の土砂置き場)の名にちなみ、
 眼目新とともに2つの字を「丸山」と称されるようになったそうです。

 今は、白萩西部小学校地区の中心部となり、小学校も鉄筋コンクリート造りに改築され、
白萩西部地区の城とも思わせるような雄大な姿に変わりました。

 今の小学校を見るたびに、しみじみと小学校時代に思いがはせ、現代の子どもたちが幸せそうに思う反面、
自分たちが子どもの時代に、自然を相手に無邪気に遊んだことが却って幸せではなかったか?
と思ったりもします。

 今の子どもたちは、何か1つの枠の中で養育されているように思われ、
高学年になるにつれ、昔のような無邪気さが失われていくような気がします。
 社会人となっても、高度な社会になればなるほど、
人が機械に使われているような、
ゆとりのない生活を築いているような・・・そんな気がし、果たしてこれが幸せなのだろうか
と思うことがあります。

 21世紀も間近となり、科学技術の進歩も大切とは思いますが、
人が一生を送る過程において、余裕のある生活を送れるような社会作りにまい進してもらいらいと思います。
  

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