湯崎野開拓の父、正印次郎兵衛
                                  湯崎野 酒井 豊

 湯崎野は稗田の草刈り場になっていたので、この地の開拓は、若い頃からの夢だったに違いありません。
正印次郎兵衛は、湯崎の大地の開拓に力を入れました。まず、開拓するには用水が必要です。
いろいろ調査をした結果、大岩川から水を引くことが一番適当であると考え、大体の目安がついた頃、
稗田の住民には、湯崎野台地の代わりに須山の奥地にある共有の「上の原」を与え、次郎兵衛が率先して
用水作りにかかりました。上市川から入る湯神子用水は大変水が冷たく、しかも分水が不可能だった。
そのために、はるか南方二里も先の大松新で大岩川をせき止め、柿沢山のふもとを延々う回して
須山川を通して湯崎野に水をひくという難工事でした。また、この頃次郎兵衛の子ども、甚兵衛も一人前になり、
次郎兵衛の仕事を手伝うようになっていました。

 親子はこの知の骨を埋める覚悟だったのでしょう。祖先の墓までも湯崎野に移し、作業小屋を建てて、
用水や新田の開発に身を尽くしました。最後はわずかの落ち度に、厳しい掟によって罪科を受け、
その歳の5月に亡くなったといわれています。だから、次郎兵衛親子の生年月日や詳しい功績などは、
はっきりしていません。しかし、この親子は、一生を村人のために尽くし、そのために見を犠牲にしたことは事実です。

 次郎兵衛の墓は、スーパー農道の西側にあり、標識も立てられ、分かりやすい場所にあります。
位牌は、湯崎野公民館に安置されています。昔、位牌は湯崎野の守り神として家ごとに廻されていたそうです。
その後、位牌が手直しされ(昭和57年1月15日)300年忌法要が営まれました。
 毎年お盆には、全勝寺住職(山崎弘道元教育長)によって供養されています。

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